時々、さんざめく

とるに足りないニワカ趣味話(旅行、美術、酒etc)

佐伯祐三─自画像としての風景@東京ステーションギャラリー

平日にお休みを貰ったので、休日だと割と混むだろうか、と思われる場所へ。

佐伯祐三の絵は何度か拝見している。パリの街角の絵が多い作家。
夭折した日本人の洋画家、というと、なんかどうも色々人生的に屈折したイメージがあるんだが(あ)
前後期制で、いくつかの展示に入替有。


展示は3階から。
プロローグ「自画像」。
自画像から、デスマスクならぬライフマスク(要は生前の顔を象って作ってる)、やら。
写真もあったけれど、顔立ちのはっきりした、まあイケメンと呼んで差支えのないお顔をされておられる。書き手の好みとは違うけれど。
…やっぱり人生的に屈折されてるのかしら(偏見が過ぎる)
「立てる自画像」は顔を潰していて、なんというか凄い自己否定をなさっている。理由は後述。


「1-1 大阪と東京:画家になるまで」。
佐伯祐三は大阪のお寺に生まれているのだが、大阪から東京の東京美術学校(現・藝大)で藤島武二に指示している。なので「日本人が当時描く洋画」という感じの、穏やかな絵が多い。
「河内打上附近」だけ、ちょっとフォービズム入ってるかも。
このコーナーは大学時代の絵と、パリの最初の渡航直前まで。
で、略年表が飾られていたり、ところどころにエピソードが書かれていたりしたのだが。
学生時代に結婚…お相手…ん?下宿先(下宿先は檀家の方だったそうな)の方に紹介されて、銀座の貿易商の娘さんと御結婚?でもってお子様も生まれて。
パリに二度渡航しているのだけれど、渡航料金は家からの援助と、足りない分は自分の絵を売って資金にしていたり。
…あれ?私生活、かなり真面目な感じ?
…なんというか、夭折の洋画家への偏見に対して、ごめんなさいってなった(あ)いやまあ、かなりお遊びになってたとか、失恋のあまり身体壊したとか、そんなエピソード持ちな画家がいらっしゃるしね…。
ただ、御身体は弱くて、お父様もお兄様も結核で早い時期に亡くして、自らも結核で病んでいらした。
ライフマスクを作った頃に喀血していたこともあって、人生が長くないことも悟って、画業に打ち込んでいたような印象を受ける。


「1-2 大阪と東京:<柱>と坂の日本-下落合と滞船」。
このコーナーは最初のパリ渡航後、病状が悪化して日本に戻ってきて、暮らしていた下落合の風景と、あとは港での船の絵が数点。1926~27年頃。
下落合は当時は土がむき出しの道で、まだ鄙びた感じのする、坂の多い街だったようで。
実は落合と言われると、書き手は林芙美子を思い出したりする。時代的にはちょっとだけ佐伯の方が早い時期に住んでいたので、林芙美子が書いている落合の風景より更に未開発だったかもしれない。
むき出しの土の坂の道と、電柱と、ぽつぽつと行きかう人と。
ちなみに電柱は描くけれど、電線は殆ど描かなかったそうな。
その後の船の絵の1つ「汽船」で、空を大きく描いて「ブーダンのよう」と解説で言及されていたけど、もしかしたら電線を描かなかったのは、空を大事に描いていたのだろうか、とふと思ったりした。

このコーナーでは2つ、小特集が。
まずは「親しい人々の肖像」。
割と、簡素に、だけど特徴を掴んで描かれているような感じなのだが。
ここで気になったのは「彌智子像」。佐伯の実の娘さんの絵。
背景が薔薇色で、表情も凄く柔らかくて、あ、これ滅茶苦茶娘さん大好きだわ…となった。
娘さんが佐伯祐三が亡くなって2週間後ぐらいに亡くなっている事実が辛い。奥様が一番辛かっただろうなあ…。
奥様の佐伯米子も画家で、夫と娘を亡くした後は帰国して、日本で活動されている。

もう1つは「静物」。
割と身近なものを描いていることが多いのかな。
「鯖」は色が綺麗だった。
後は「蟹」。自分のお姉さんの家で、イキが悪いからと捨てられていたのを、拾ってきて、スケッチして(後で絵にして?)、その後に佐伯がきっちり食べてあげたらしい。なんか、丁寧なひとだな…。


「2-1 パリ:自己の作風を模索して」。
1回目のパリ渡航、1年目。1924年
最初は印象派に近い絵を描いていた。
「パリ遠望」は解説にもあったけれど、セザンヌの描く小さな白い家が連なる感じにとても似ている。
「オーヴェールの教会」はちょっとゴッホっぽいと解説に。
で、実はこの頃、ヴラマンクに絵を見せに行ったら、「このアカデミック!」と罵倒されたそうで。実は前述の、顔を潰した自画像はその頃の絵。
でも、それでも自分の絵を探し始めたのは凄いなあ。
「村の教会堂」だけ翌年の作品なんだが、明らかに様子が違うんだよね…。


ここから2階の展示に。
「2-2 パリ:壁のパリ」。
1回目のパリ渡航、2年目。1925年。
この頃の佐伯の絵が「よく拝見する佐伯の絵」。
パリの街角の風景、店、そして壁。
…ここから2階の展示になっているの、東京ステーションギャラリーやってくれるなあ、と思う。2階の展示室、東京駅の煉瓦がむき出しになっているから、作品と展示室の壁が続いているようになっているんだよねえ。
少しユトリロっぽい部分もあるのだけれど(影響は受けてるみたい)、だんだん佐伯の、店の看板や広告の文字に対しての妙なこだわりが出てきて、これが個性に。


「2-3 パリ:線のパリ」。
2回目のパリ渡航、1年目。1927年(一部28年も)。
この頃になると、広告の文字やら木の枝やらが画面を縦横無尽に絡み回る感じに。
2-2や2-3は全体的に御洒落なのだけど、面白いのは結構洒落た、現地では「エスカルゴ」と呼ばれている建物を、佐伯がお洒落に描いているもの。タイトル「共同便所」。…公衆トイレ…。
日本からパリに渡航した洋画家は何人もいるけれど、これを主題にして描いている洋画家は佐伯ぐらいらしい。


「3 ヴィリエ=シュル=モラン」。
ヴィリエ=シュル=モランはフランスの郊外の村。
佐伯はこの年に結核が悪化しちゃって、療養に。
田舎の風景画が増え、それでとても画面が穏やかに。御本人は苦しかっただろうけれど。
この後、更に体調も崩し、精神的にも悪化してしまい、自殺未遂を起こして、精神病院に入院。最後は食事を断って衰弱死したそうなのだけど、若い頃から死を意識していたからこその行動かもしれないし、そもそも体調が悪化して、とても苦しかったのかもしれないし。


エピローグは「人物と扉」。
最晩年の作品。最後に人物画がいくつか描かれたんだね。
「ロシアの少女」の洋服がとても可愛い。
「黄色いレストラン」は屋外で描いた最後の作品だったそうで。
で、その後描いたのが「郵便配達夫」。
こちらは偶然訪れた郵便配達夫をモデルに描いたらしいのだが、後にも先にも、この時だけ現れた人だったらしい。
奥様の佐伯米子が「あの人は神様だったのではないか」と後に語ったそうな。
タッチもちょっとここまでとは違うように思える。妙な存在感。


じっくりまとめて拝見できる、ひとりのことについて考える、というのは、なかなか面白い。


で、東京ステーションギャラリーの入場券の割引でお昼を。


このくらいでは酔っぱらわないのでいいですな(え)


続く。